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掲出日
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執 筆 者
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2004年11月02日
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2004年11月02日
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2004年09月22日
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※会役職、所属先・役職は2004年度の役職です。
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| 2001年度「Do-Gang!?」はこちらです。 | |
| 2002年度「Do-Gang!?」はこちらです。 | |
| 2003年度「Do-Gang!?」はこちらです。 | |
| 『夢のような、馬鹿みたいな県民球団構想』 |
総務委員会 委員長 林田 淳一
RHK株式会社 代表取締役社長 |
今、「熊本にプロサッカーチームを」との声が聞こえてくる。悪い事じゃない。 しかし九州各所にも数チームあるがなかなか運営にご苦労が多いようである。 一方、プロ野球の新規加入問題はライブドアか楽天かの結論が出たばかりである。この選択の理由のひとつには赤字に長い間耐える体力のある会社である事らしい。 いずれも共通しているのは金銭的な問題である。 一方、サッカーで新潟は上手くやっていこうとしているとの報道を良く聞く・・・・。 昨日のある会合の最中に『いっそ、ライブドアを熊本に呼べばいいのにねぇ』との声もあった。なるほど、それも一興である。今、進められているサッカーの方でもいい。 聞くところに拠れば、サッカーの方が試合数が少ないので観客動員や金銭的な運営が楽であるらしいとも聞く。 思い付きで誠に恐縮だが、夢のような馬鹿みたいな話を一つ。 何処かの一社の企業の広告媒体としてのスポンサーを辞めていっそ熊本市民・県民球団を運営してみたらどうかと思う。 運営母体は熊本県民。出資者も熊本県民。 読売とか楽天とかの企業冠の付かないスポーツ軍団を熊本県民が出資し応援する。勿論賛同して頂ける熊本の企業の参加もある。しかし、冠には一切付けない。 冠は『くまもと』だけである。 一番の問題・・・運営資金をどうするか? こんな発想は如何だろうか? 県知事から県民に向けてメッセージ。いやいや・・・ その前に県の職員に向けて一言! 『熊本県職員のみなさん。 熊本の地にプロスポーツを育ててみませんか? 企業の誘致も税収や雇用の確保の観点から大切な事です。ならば、その上でもう一つ。県民が支え県民が育てていく今までに例を見ないプロスポーツをこの熊本県が持ちたいと思いませんか? 阿蘇や熊本城の物理的な観光資源の他にこのプロスポーツを持つ熊本県民の熱い思いも観光資源にしてみては如何でしょうか?その県民一人一人の熱い心で明日からの熊本の何かが変わる気がしませんか?』 『ならば、ご相談です。 広く熊本県民に資金と運営のご協力をお願いしたいと思います。しかし、その前に我々県の職員が先頭を切って資金を拠出しましょう。この財政難の中では県の予算は有りません。予算の無い中で事業をやっていくのです。税引き後の我々の給料から毎月毎月資金を拠出しましょう。一口千円です。役職者はそれぞれに口数を増やします。 みなさんの給与が減り生活が大変な事は重々承知しています。しかし、この沈滞しかけた熊本県に活性化させる為には、まずは県の職員である我々が率先して何かを始めるべきです。税金を使ってやっていては県民は着いて来てはくれません。 |
財政難の中であれば身銭を切って活動を始めましょう。その上で県民のみなさんにお願いしましょう。必ず思いは伝わります。物凄く心のこもった資金で運営していくのです。そこには必ず県民の一体感が生まれ、この事業を成し遂げれば、次に必ずや新しい熊本が創造できると思います。』 |
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2004年11月02日
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| “「お役」をお預りすると言う事” (ちと、格好よく大上段に・・・) |
総務委員会 委員長 林田 淳一
RHK株式会社 代表取締役社長 |
![]() 杜の都は 九州熊本 秋の名物 随鋲祭に 日頃鍛えし 祭り囃子を 鳴らして魅せよか 叩いて魅せよか 舞うて魅せよか 追うてみせよか ただ今 見参! 平成16年10月10日 大坂 御堂筋パレードにて 本年度から「くまもと21の会」の総務委員長と言う重責を仰せつかっている。 会長が決定した後に幹事長から「会長の推薦だぁ。委員長を受けろ」との話があり、素直な気持ちで「私で宜しければ・・・はい」と答えてしまった。 何の委員長かは知らなかったが、一寸した信条として、属している団体の中で何かの持ち回りの役の依頼を受けた時には、特殊な事情がない限り前向きに受けて極力「はい」とお応えする様にしている事により、そうご返事申し上げた。少なくとも「お前がやれ」という事ならば、これは役職を持ち回りで運営していく会の中では事情の許す限りは会へ対する礼儀だと思っているし、当然の義務だと思っている。そうでなければ、その会は長期的に成り立っていかないし、忙しいのはみんな同じである。どこかでお役に立つ事が有れば喜んで受けるべきだと思っている。少なくとも食卓で食事をして、ベッドで睡眠が取れる内は「忙しくて何も出来ない」話では無いと思う。そう思い、役をお預りした。 しかし、だからと言って、「総務委員長はないでしょう?」何かの事業をする部署でなく、年間を通して会員のみなさんに便宜を図る部署である。事務局の方に比べれば日々の動きは少ないであろうが、それでもどこにも属さない話が「総務委員会」のワークである。仕事の質が雑多であり、私自身の人相の通りで性分に合う気はしない。これは傍目から見ても想像に難しくないと思う。アンケートをとれば明白であろう。 しかし、委員会名を聞いていなくても「はい」と返事した以上は2年間の任期を全うする義務がある。仁義である。細かい事を得意とする個性ではないが、必要ならば龍にでも蛇にでも、いっそ細かく蟻にでもなってみようかとも思う。幸いに必然として、副委員長に坂野君と竹部君という人を得る事が出来た。心の熱い両人である。そして新入会員の中でも慣れないながらも最初から熱い心の方も多い。嬉しい限りである。楽しい限りである。大いに議論して、共に汗をかいていくには充分な仲間である。 折角の人材豊富な「くまもと21の会」。地域の中で出来る事、議論した事を現実にやり遂げる事、僅かながらも熊本に貢献する事、新しく仲間が増える事、そして自分自身が活性化すること・・・・勿論、仕事は大切な事。他の活動も大切な事。家庭も大切。だからこの「くまもと21の会」も同じ様に大切な事である。そう思って、あと1年半を頑張っていこうと思う。 |
思い出せば、引っ込み思案だった気もする幼少の頃から学級委員長もした。バスケット部のキャプテンもした。生徒会の生活委員長もした。応援団長もした。祭の実行委員長もした。楽団の長もした。PTAの役員もした・・・・・その時、なった瞬間には鬱陶しくもあるが、みんなと本質的に何かを成せば、後になれば今も付き合いのある仲間が一杯である。自分自身もその度毎に何か失敗をしでかす、そして何かを学ぶ。苦しくも有り、有難くもある。 |
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2004年11月02日
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| “どぎゃん” |
くまもと21の会 会長 曽我 邦彦
有限会社 ソガクリエイト 代表取締役 |
![]() くまもと21の会に参加して10年、まさか会長を務めるとは思ってもいませんでした。最初は、青年会議所の現役でしたのでほとんど参加できない状況でした。でも、卒業したら絶対に参加するとは思っていましたので、他の団体には入りませんでした。 青年会議所の卒業を前にして、自分の短い人生において、仕事のみに専念することは不向き。社会活動は続けよう。いつも活発に地域のことを考えていることが一番自分の人生らしいらしいと考え、地域活動の経済団体として「くまもと21の会」、先祖の地が素晴らしい地域であるようにと考え「西原村商工会」、そして子どもがお世話になっているので少しでも役に立てばと地元小学校・中学校の「PTA」に参加するようになりました。 このように考えるのは何故だろうと考えたとき、育ってきた環境が原点なのだと感じました。 父が運輸省港湾局の国家公務員でしたので転勤の繰り返しでした。生まれたのは、福岡・行橋、そして門司へ、小学校1・2年は下関、3年と4年の1学期までが福岡市・百道、中学校2年の1学期までが別府、高校3年までが北九州・黒崎、そして大学以後東京周辺で暮らしました。大学1・2年以外は不思議に全て両親・親戚と一緒の大家族。結婚して子どもができて、やっと「ふるさと熊本」に住むようになりました。でも、やっぱり両親を含めての大家族。また、どこに転校しても、3日以内に地元の子と間違われるくらいで、転校が気にならない子どもでした。 おしゃべりで、いつも動き回っていましたので、ガソ(落ち着きがないという意味でしょう)というあだ名がついていました。また、みんなで遊ぶのが好きで、誰とでも付き合って遊んでいましたので、知らないうちにクラスの接着剤。よい子、悪い子、みんなで付き合うクラスになっていました。北九州の黒崎中学校は県下で一番あれていた学校だったようですが、私は気付きもしないでみんなと付き合っていました。(大人になってスクールコンサートに行ったとき、当時の先生に出会いそんな時期の学校だったことを聞かされました)確かに、中学生なのにふところに短刀を持っている子もいました。でも、私に向けることは絶対にありませんでした。(ちびだったからかな)逆に、クラスみんなで仲良くしようと、呼びつけ意見していたくらいです。 このように育った私なので、どんな時も多くの仲間と語り合い楽しくて楽しくてしょうがない人生を送っています。気付いたら今でした。難題はチャンスに感じていまうし、ほんとに楽天家なのかもしれません。みなさんから言うともっと落ち込むくらい気にしなければならないことも、一晩寝ると、解決しようという気持ちが勝ってしまいます。失礼をしていることもあるかもしれません。50年とても楽しい人生と言わせてもらって良いと思います。そして、一番嬉しいことは「ふるさと」に戻れて、ふるさとで「ふるさと」を感じるよう子どもを育てることができたからだと思います。 |
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2004年09月22日
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