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掲出日
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執 筆 者
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2002年06月21日
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2002年06月21日
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2002年05月08日
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2002年03月03日
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2002年01月11日
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※会役職、所属先・役職は2002年度の役職です。
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| 2001年度「Do-Gang!?」はこちらです。 | |
| 本年度の「Do-Gang!?」はこちらです。 | |
| 海外旅行とMy identity |
くまもと21の会 e情報委員会
委員 石崎眞弓 有限会社 アサンテ・カンパニー 代表取締役 |
| 大好き、海外旅行。20代から出かけ続けて…約四半世紀。そこで今回、海外でのエピソードを思いつくままにお披露目したいと思います。(注:私は英語力が全くありません。ので、文中における外国の人の言葉は意訳と推測です。加えてちょっと自慢話?あしからず!) 強烈な洗礼を受けた初めての海外 …ホノルル編 50万足らずの貯金を手に“海外へ”とふと思いたった20歳前半。ひとりで1カ月くらい…。もちろん親には事後承諾というカタチで(ちなみに私の親は、私が成人してから1円も援助しない人で、海外=危険しか頭にない人であった)。そんな状況の中、1カ月もホテル滞在は無理なので、自宅に泊めてくれる人を友人のネットワークを駆使して探し…当てた。行き先はハワイ。いざ出陣! 滞在先はKailua(カイルア)というホノルルから1時間ほど離れた閑静な住宅街。もちろん日本人の姿はなく私ひとり。英語はしゃべれない。それでも何故か、初めて経験する異国の生活文化を満喫していた。毎日どう過ごしていたかというと…勝手に自分で朝食をとった後、その宿泊先のお手伝い(滞在費の代り)。それが終わると近くの海岸へ行って読書&ボディサーフィン三昧。午後からはダイアン(友人の友人で宿泊先の娘)のバイト先であるお家とプールの掃除(すごいお金持ちだった)。夕食だけは家族全員揃ってとり、その後私たち子供組は毎日ホノルルの街に繰り出した。目当てはアラモアナ通りの一番はずれにあるwaveというクラブ(ここも日本人はいなかった。たまに日本の芸能人が来てた)。 |
毎晩出かけたがお金は使わなかった。なぜなら19時までに入店すれば無料だし、喉が渇いたら車に持ち込んだ自前のアルコールをゴクゴク。それからまた踊りに店の中に。その繰り返しで、お金は必要なかった。 滞在も残り少なくなった頃、そこのパパが「マユミ、初めてのハワイなんだから、最後くらいホノルルで楽しんだら」と海軍御用達のホテルをリザーブしてくれた(パパはアメリカ海軍だったのだ)。もちろん料金は格安。そうして私はホノルルへ移動した。と同時に事件は起こった。夜シャワーを浴びて一息つこうとした時に部屋の電気が消えた。「あれ、停電かな」とゴソゴソしてたら何やら外が騒がしい。窓の外を眺めたら、なんとホノルルの街全体が真っ暗なのである。そう、街全体が停電してたのである。それからがすごかった。奇声が聞こえ始めたと思ったら、ガラスの割れる音・音・音。その後は悲鳴と罵声とパトカーのサイレンのオンパレード。私は部屋でひとり…ポツンと…。恐怖がジワジワと襲ってきた。ここで殺されたらどうしよう。ここは日本じゃない。「ホラ言わんこっちゃない」と親の声まで聞こえてきた。ヒエ〜とベッドにもぐり込んだ。怖いよ、怖いよ、怖いよ〜と3回ほど思ったら…朝だった。次の日、暴動の後の街は言うに及ばず。 全く見ず知らずの私を家族同様に接してくれたオープンさ。お金を使わずして楽しむ賢さ。そして停電だけで暴動化する激しさ。かくして私は、今も色褪せない海外デビューを成したのである。 |
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| 習うより慣れろ …パリ編 パリに行った。また1カ月ほどの滞在。ブランド品など買物に全く興味のない私は、美術館に入り浸りの日々を過ごした。いかんせん本物がゴロゴロしてるのに入場料が安い。日曜日は無料ときている。私の一番のお気に入りは、昔の駅舎を利用したオルセー美術館で、1カ月のうち半分は行ってた(N.Y.のグッゲンハイムも大好き)。 ところで、私の旅は常に貧乏旅行だ。が、私なりの旅のセオリーがあって、何か一つだけはお金をかけて本物中の本物を経験すること。パリではオペラ座にバレエを見に行った。自分なりにドレスアップして行ったつもりだが、本場のゴージャスなマダム達を目の当たりにして…撃沈。それでも精一杯背伸びして、ウエイティングではシャンパンなんぞ飲んだりして。一杯飲んで席を探していたら、私の体の3倍はありそうなマダムが親切に席まで案内してくれた。そこで私は極上の笑顔で「メルシー」とお礼を言って座ろうとした。その時である。これまた体に劣らず超特大のガマ口を私の目の前に。私は意味がわからない。仏語でまくしたてるオバさん(いきなりマダムからオバさんに豹変した)。しばらくそのガマ口を見つめているうちに解った。『私はあんたを親切に案内してやったんだからチップを入れろ』ということであった。ホテルとかレストランでは心構えが出来ているのだが、ちょっとバージョンが変わるとこれだから…情けない。 外国には日本にない習慣がいっぱいある。中でもチップに関しては、絶対に適正価格のチップをスマートに払えるようになってやる!と、密かに念じているのであった。それにしてもオペラ座のドーム天井いっぱいに描かれたシャガールの画。バレエとシャガールと、ひと粒で二度美味しい思いをしたパリの夜だった。 |
愛すべき日本語 …ギリシャ編 私にしては珍しく添乗員付きの団体旅行に参加した(急きょ行けなくなった友人の代わりに)。行き先はブタペスト、イスタンブール、ローマ、ギリシャ。そして私はつくづく悟った。いかに自分が団体旅行に向いてない性格かということを。とにかく時間に束縛されるのがイヤ。団体行動というのが苦痛なのである。ストレスがたまっていく〜。しかし、そこは切り替えが早い石崎さん。わずかな自由行動の時間をフルに活用。とにかく誰にも行き先を告げず、カジノに行ったり、宮殿を活かした公衆浴場で温泉を楽しんだり(だって行き先言ったら、皆がついて来るんだモン)。 ストレスもだいぶ解消されたギリシャでのこと。ホテルのエレベーターにひとり乗り込んだ。同時に白人系のでかい男性が乗り込んで来た。ふとイヤ〜な予感が…予感適中。いきなりその男が私に抱きついてきたのである。私は必死に片言の英語で抗議した。にもかかわらず、その憎き男は抱きついたまま。コノヤロ〜と思った瞬間、「あんた何ばするとね!私に触るな!」と日本語で怒鳴った。しかも熊本弁まるだし。そっと男は離れた。 やっぱり私の魂がこもるのは日本語。いつも使い慣れている言葉にこそ言霊は宿るんだ、と確信したのであった。日本語バンザイ! |
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| 旅先に悲喜こもごも …カナダ〜ジャマイカ編 海外に住んでいる友人たちから度重なる誘いを受け、気ままに訪ね歩く(飛ぶ?)旅に出た。最初バンクーバーに住む友人を訪ねた。バンクーバーという街は、日本人には何となく居心地のいい処だった。Whistler(ウィスラー)というスキー場にも1週間滞在し、ゲップが出るほど楽しんだ。 大好きなスキーで気を良くした私は、それこそルンルン気分でトロントに飛んだ。空港でしばらく友人を待っていた時のことである。3人の上品そうなオバサマが、ハイヒールの音を高らかに鳴り響かせて私に近づいて来た。と思ったら、突然3人揃って英語の一斉射撃。バンクーバーで3週間ほど過ごしていたのでヒアリング的には慣れており、今回は意味がすぐ解った。私が着ていた毛皮のコートが逆鱗に触れたらしい。大人しく拝聴していると『だから日本人は野蛮なんだ』と言われた(私にはそう聞こえた)。キ・レ・た。「さんざん自分達がやってきておいてフザけんな。私が着てるのはフェイクファーだよ。よく見てものを言え。あんたたち人種が世界の中心と思うな!」と怒り爆発。今度は私が日本語でまくしたてた。が友人が来たところでTHE END。超バイリンガルな彼女が英語と日本語を瞬時に切換えながら仲裁した。車の中で聞かれた。「マユミさん、いつも日本のあり方には批判的なのにどうして?」。そう、とかく私は日本の現状に批判的。だけど他の国から日本がけなされると、俄然日本人してしまうのだ。血とは不思議なもんだ。 トロントで遊んだ後はクリスマスのN.Y.へ。初めて陸路での国境越え。バスに乗っている間中ドキドキソワソワ。いよいよその時は来た。バスから全員降りて次々と手続きを済ませる。 ![]() |
私は最後。ところが質問攻めで、なかなかスタンプを押してくれない。陸路と空路は違うのかな…どうしていいか解らず泣きそうになった瞬間に、パンパンとクラッカー。今まで仏頂面していた係員から『メリークリスマス』とハグされた。それからハグの雨嵐。サプライズだったのだ。私は大男たちにハグされながら、アメリカとはこんなお役所的仕事中にもウィットに富んでるんだなと感心した。 N.Y.でのクリスマスも過ぎ、今度はカウントダウンを楽しもうと、N.Y.の友人と二人でジャマイカに飛び立った。ホテルにチェックインした直後、プールサイドに繰り出した。カウントダウンの前祝いにカクテルを注文。さすがにレゲエの国 。足取りも軽やかにボーイが運んできたかと思ったら、『つきあわない?』と一言。ここで淑女たる私は冷静に「日本に彼がいるの(もちろんウッソ〜)」と答えた。すると敵はひるむことなく『ジャマイカに滞在している時だけだよ』と言う。しつこく誘われるので「どうして?」と尋ねた。ボーイは『日本の女の子はすぐ付き合ってくれる。お金も出してくれるし、ヤラせてもくれる』と平然と宣ったのだ。唖然。日本の女性がイエローキャブと言われる由縁を垣間見た気がした。日本女性よ、プライドを持て〜!とおばさん化した私は憤慨しながらも、レゲエ一色のカウントダウンにノリノリで踊りまくった30歳の年の暮れだった。まだまだ数限りなくエピソードはある。が、長くなってしまうのでここらで終了。ただ、いつも海外に出ると思うのだが、私ってつくづく日本人。表面はグローバル・スタンダードを装っているが、根っこの部分はしっかりと日本人している。とは言っても、ホントは何がJapanese identityなのかは未だに?マークなのだが。とにかく、ガンバレ、ニッポン!かな。 さてさて次はどこに行くのやら。と思っているうちに突如として出かける石崎さん。今ではお守りと化している母のこの一言を背に受けて…。「マユミ、今度こそ新婚旅行よね」。エヘヘ。 |
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2002年06月21日掲出
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| ハコスカと私 |
くまもと21の会 e情報委員会
委員会幹事 中山弘幸 観光農園ドリームパーク 代表 |
| それは私が17才の3月1日のことだった。私の母校K.N高校では、卒業式に車に乗って行くのが流行していた。何となく4階の窓から駐車場を見ていると、何やらカッコイイ車が2台、イエローと濃紺のハードトップの同じ車がさっそうと登場した。それがハコスカと私の出会いだった。ひと目惚れで、自分の車はハコスカしかないと心に決め、卒業式前にハコスカを買ってもらい、当然のように車に乗って行った。朝から粉雪のはらつく寒い日だった。しかし、お金のない私は、あの時のハコスカのようにカッコ良く決めることはできなかった。 しかし、そのハコスカもその年の7月の夏祭りの帰りに橋のらんかんに激突し、あえなく廃車。その年の夏は本当に寂しい夏だった。悲しみにくれる私に後入りの話がきた。先輩が買い替えるので、下取りの45万円でどうかというので購入し、それ以来、そのハコスカと青春時代を共にすることになった。 3台目のGTRとの出会いは25才の時だった。時々顔を出していた車屋さんから、近々160万円でいいGTRが入るという話があり、以前から憧れていた私は、両親に相談し買ったのだが、結局ローンが払えずに1年後に159万円で売却。その直後からGTRの相場が300万円になり、現在ではその価格では買えないはず。それでも私には2台目のハコスカが残っていた。 ところが26才の時、みかんの価格が大暴落。これでは年が越せないと判断した私は、泣く泣くハコスカを売る決意。 |
60万円で売れ、何とか生き延びた私は、もう二度とハコスカに乗ることはないと諦めていた。ところがその日は突然訪れた。28才のある日、城南町を通っていた私は車屋に1台のハコスカを発見。思わず衝動買いをしてしまった。 そして現在に至るのだが、30才の時に1度そろそろハコスカとサヨナラしようと思ったことがあった。ところが1カ月経っても2カ月経っても買い手がなかった。「ああ、これは売ってくれるな」ということかと思い直した。私は一生涯ハコスカに乗る決意をした。 ハコスカの思い出はたくさんあるが、何と言っても極めつけは22才の正月。高速道路で走行中に左の後輪が外れて、あわや大事故になるところだった。一緒に走っていた仲間を158キロぐらいで抜き去った直後に異変に気付き、路側帯によって70〜80キロぐらいに減速していたから事無きを得たものの、今思えばゾ〜とする。原因はというと、昼間に友達とシャコタンしてジャッキを降ろした後の最後のひと締めをしていなかったのだ。 女房からいつも「早う売んなっせ。ジャマになる」と言われながら、何故ここまでハコスカにこだわるのか。別に意味はない。ただハコスカが好きなだけ。あのシンプルな中にも精悍なマスク。そのハコスカも現在長期入院中で、直に新車のようなハコスカが帰って来る。楽しみだ。 |
![]() 最初に買った箱型スカイラインと(左)と現在、入院中の四代目スカイライン(右) |
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| 人生は自分探しの長い旅 |
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| 私は子供の頃から、人と同じになることが好きではなかった。自分は自分で、皆と同じなら自分が存在する意義がないと思っていた。若い頃、みんな当り前のようにタバコを吸っていたが、吸う必要性を感じなかった私は吸わないことにしようと思ったりした。 22才の夏、ある出会いをきっかけに、私は人生を真剣に考えるようになった。自分はいったい何のか、何ができるのか、どういう生き方をするべきなのか。26才の時、ある本との出会いで人間界のからくり、大自然(大宇宙)のからくりがボンヤリとつかめるようになった。しかし、30才である本に出会うまでは暗中模索だった。坂本竜馬の本の中にこんな一節があった。「リーダーになる人間はまず旗を上げろ。人から言われるのを待っていたのではダメだ」。その時の感動は今でも忘れない。全身が震え「これは俺のことだ」と勝手に思い込んでしまった。しかし、年が明けると、その熱い思いも消えかけていた。ある日、ある人と酒を飲んでいて『町づくり』の話になり、「お前がそんな言うなら町議になれ」と言われ、「ハイなります」と答え、現在に至っている。 |
つくづく思うことが「人生は出会いで決する」ということである。36才の時に今の師匠に出会い、私の人生の目的は完全に確立した。その師匠がいつも言っていることが、人間は自分の努力では変われない。出会った人に高い価値観の話を聞かされ、自分の価値観の間違いに気づかない限り人間は変われない。自分の価値観では、自分の価値観の間違いに気づくことはないと言うのである。自分の価値観は正しくないという前提があるからこそ、他人の話を素直に聞けるというのである。 常に自分より高い価値観の人間との出会いを求め続けるのが人生だと思う。それによって自己イメージ、自己理想が確立し、自己尊厳が理解できるのだと思う。 今の師匠に出会い5年目になり、人生の目的は確立し、自分の言葉で説明できるようになった。しかし、目的は決まったが、どの道を選ぶかということでまだ迷いがある。それが決まるまでは後4〜5年はかかりそうである。21の会の皆様、ご指導をよろしくお願い致します。 |
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2002年06月21日掲出
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| 悪い癖 |
くまもと21の会 21ベーシック委員会
委員長 水島 源廣 有限会社 水島工芸社 代表取締役 |
| あ〜ぁ 「人間って」というより、やっぱり「私って」と言うべきなのかな。この45年間というより、物心ついてからというべきなのか。 しかしながら、何時も念頭に置き「こころがけ」ているつもりである。この「つもり」がいけないのか。 『期限、時間にルーズなこの私』 極めて几帳面な性格だと私自身は思っている。予定表には必ず記しているし、「報・連・相」もこまめに、何時に何処へと考え、充分な時間をとっているはずなのだが…。 毎朝、今日の予定はと考え…想像する。 朝6時20分起床(休みの日以外)、まず、たばこを吸いながら、コーヒーを飲む。さてさて今日はどうしようなどと考えていると、職人さんが事務所に来て、その日の打ち合わせ。業者、お客さんへの電話を済ませ、また、たばこを吸いながら、今日はどうしようと考えている。やるべき事は、次から次へと私を待たずにやってくる。お客さんとの打ち合わせ、現場廻り、見積、会議。私が何一つ終わらせることなく考えている間に、物事は進んでいる。 例をあげれば、見積依頼がある。依頼を受けて直ぐに行動を起こせば、何のことはなく終わってしまう見積を期限の日まで、手をつけないのである。 で、その当日、「時間がない、あれもしなければならないし、これも」と思いながら、どうにか間に合わせてしまう。間に合いそうもないときは電話で遅れますと言いながら、その見積に追われてしまい、その日終わらせなければならないこと、済ませておいた方がいいことが、必然的に明日へと持ち越される。 |
そしてまた、次の日も時間がないといいながら、幾つかはまた翌日へとなるわけである。 その場で、連絡、または処理すれば済むことを期限がまだある、時間はまだある、後でいいと思い先へ延ばしてしまうのである。 ただ、 「やれば直ぐ出来る」と思ってしまう。 「ちょっとぐらい、いいや」と思ってしまう。 「明日があるさ」と思ってしまう。 「どうにかなるさ」と思ってしまう。 一つのことを終わらせると、ちょっと一服と思ってしまう。 何度となく繰り返してきたことだけれど、いまだに、直らないのは意識の欠如か、慢性化か、開き直りか…? どうにかしたいこの性格というか、習慣。 この性格のせいで、時間が足らず不機嫌になり、妻や子、母に嫌な思いをさせていることを充分承知しているし、また人を待たせ、不機嫌にさせていることも充分承知している…この私。 分かっているのに何故出来ないの? ん…わからない。 何故出来ないんだろう…。 悩んでいるのは私だけ? あなたは…。 |
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2002年05月08日掲出
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| ぴしゃっとせんかい |
くまもと21の会 e情報委員会幹事
間林 修 有限会社 間林染工場 |
| 先日、祖父が他界した。享年95歳。臨終の際も皆に見守られ大往生だった。 孫の私が言うのもおこがましいが、立派な祖父だった。仕事振りもプライベートも勇ましく口よりも手が先に出るような人だった。そして、いつも祖父が口にしていた言葉が「ぴしゃっとせんかい。」だった。この言葉は今でも私には生きずいている。 私なりに解釈してみると、物事のプロセスを大事にしろ。という事ではなかろうか? 一つ一つの積み重ねが最終的にうまく行く。ぴしゃっとできれば良い結果が待っていると思っている。仕事にしても、人間関係にしても一夜にしてうまく行くとは思えない。日頃の努力がいつしか身になっている。目に見えない努力こそがぴしゃっとせんかいだと思う。そう言う意味で、毎日がぴしゃっとせんかいなのである。 |
私が最近よく思うことがある。それは、大人がしっかりしていないということだ。 ニュース等では、凶悪事件、モラルの低さのオンパレード。情けないの一言。子供をほったらかしにして遊びまわり、餓死させてしまうという痛ましい事件も先日起きてしまった。どういう考えなのか、想像に絶する。自覚が足りないのだろうか?そういう常識の無い大人が子育てし、育った子供に常識が有るとは思えない。未来の雲行きが怪しく思える。「子供に良い未来を。」と声高らかに謳うのであるならば、まず、われわれ大人の姿勢を正すべきだと思う。 いよいよ、21の会に入会し3年が経とうとしている。これまでも、良い先輩方と勉強させて頂いて感謝している。新しい委員会にも配属が決まり、2年間大いに頭を悩ませ、皆さんと良い思い出を築いていきたい。皆さんぴしゃっと行きましょう。 |
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2002年03月03日掲出
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| 明けまして おめでとうございます! |
くまもと21の会 副会長
酒本 淳一 株式会社メディア・コーポレーション 代表取締役 |
| 本当にあの忌わしい2001年が明けてくれておめでとうの年にしたいものですね。2001年は、日本がいや世界がすべての面で構造改革をしなければならない時に、あの同時多発テロが起こりアフガン戦争に発展してしまった。いつの歴史を見ても、戦争とか革命とか改革の時には、大義名分が優先してその犠牲になるのは弱者である。弱者は力がない。権力を持たない。だから、誰かが守ってあげなければならない。それでは、アメリカは日本は今回の出来事で、弱者を守りきれたのであろうか?やはり、今回も歴史はくり返された。 2002年、わたしたちの商売はどうだろう? 年末に寿屋が民事再生法の申請をした。聞くところによると、数日前から一部大手業者が商品の引き上げをしてたとか。冷たいと言えば冷たい。当たりまえと言えば当たりまえ。新聞によると、全社員一時解雇とのこと。これも冷たいと言えば冷たい。当たりまえと言えば当たりまえ。それでは一体誰が悪いのか?以前倒産した大手証券会社の社長さんは泣きながら「社員は悪くありません」と言った。確かに社員には成すすべがなかったのかもしれないが、年功序列、終身雇用という大義名分のもとで会社に対する甘えがなかったのか?自分の実力はさておいて、権利だけの主張をしてなかったのか? 連合の幹部諸君!総辞職して反省したまえ! しかし、それでも経営者が一番悪い。大体、銀行の経営者にスーパーの経営ができるわけがない。 |
よそから経営者のプロを持ってきて、自分達はお金を出しますというのであればまだわかるが、殿様商売をやってる経営者が平身低頭の商売ができるわけがない。できるであろうという予測の経営の失敗である。ここでもやはり弱者が迷惑をこうむる。ここで言う弱者はお客様であり、今までさんざんいじめられてきた取引業者である(そうでしょう!業者の皆さん)。 今、日本も熊本も不景気のどん底である。いやもっとどん底になるであろう。そんな中で危惧するのは「今どん底だから構造改革が進めば景気はよくなるであろう」「そうすればまた会社も持ち直すであろう」という従来形の客観的予測経営思想がはびこっていることである。果たしてこれから先、景気がある程度回復したときに(何をもって回復というのかいささか疑問であるが)従来の経営思想でやっていけるのか? 世の中の指標に左右されない強い企業体質をつくっておく必要があるのではないか?それではどうすれば?それは私にも今答えがない。ただ考えなければ答えは出てこない! 考えることから逃げてはいけない。考えなければ何も生まれない。しかし、一人で考えてもいい知恵は出てこない。みんなで考えても、やってみなければ答えは出ない。 だからみんなで考えよう!だからみんなでやってみよう!ということ。そのために「くまもと21の会」がある!っていうこと。 2002年が皆様にとって「考え行動する年」になりますように! |
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2002年01月11日掲出
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