2001年度「Do Gang !?」
掲出日
執 筆 者
2001年12月15日
2001年11月29日
2001年11月07日
2001年10月09日
2001年09月20日
2001年08月31日
2001年08月01日
2001年07月17日
2001年06月09日
2001年05月10日
2001年04月22日
2001年04月01日
2001年03月15日
2001年02月12日
※会役職、所属先・役職は2001年度の役職です。
2002年度「Do-Gang!?」こちらです。
本年度の「Do-Gang!?」こちらです。


平和
くまもと21の会 副幹事長
IT化推進プロジェクト委員会 座長
鶴 芳則
有限会社 ひさなが光機 代表取締役

 年の瀬も押し詰まってくると日本全国津々浦々にベートーベンの交響曲第九番「歓喜の歌」が響き渡ります。フリードリヒ・シラーの詩「歓喜に寄せて」によって作曲された「第九」の第4楽章は、要約すれば自由、平等、連帯によってこそ真の平和がもたらされる、という人類の理想をベートーヴェンが明快に主張したものだといわれています。一時期は外国人から奇異な目ですら見られたこの日本の「第九」熱、そもそもは、貧乏オーケストラの年越し餅代稼ぎを目的に行われたのが始まりだと聞いています。ところが今では、全世界でその意義が認められつつあります。とりわけ今年は格別です。演奏者のこころが熱く熱く、世界の隅々まで響きわたって欲しいと願ってやみません。
 平和といえば、クラシック音楽愛好家や音楽家にとって忘れられないのは今は亡きチェロの巨星、パブロ・カザルスです。1971年、全世界に中継された国連総会での演奏はいまだに忘れられません。平和を愛してやまなかった彼は、故郷カタロニアのクリスマスを祝う古謡「鳥のうた」を、「私の生まれた所では鳥もピース、ピースと歌うのです」と説明してから演奏を始めました。当時、齢95歳(翌々年には亡くなります)、そのころ学生だった僕らは、学生食堂のテレビの前で、全員涙を拭うのも忘れて釘付けになっていました。
 同じスペイン出身の絵画の巨星、パブロ・ピカソ、反戦(スペイン内乱)がテーマの「ゲルニカ」は代表作の一つです。1949年パリ平和会議のポスターに鳩をデザインしたのがきっかけで、鳩が一躍、平和のシンボルとされるようになったそうです。偶然とも言うべき2人のパブロ(ピカソとカザルス)、一生芸術を愛し、人を愛し、平和を愛し続けた偉大な芸術家たちです。
 そして今、年齢を問わず、全世界の人々のこころを揺さぶっているのが、ジョン・レノンの「イマジン」です。とりたてて説明は必要ないでしょう、日本語訳を以下に記して、世界が揺れた2001年のくまもと21の会「Do Gang!?」を閉じたいと思います。
イマジン
天国なんてないと思ってごらん。やってみれば簡単なことさ。
僕らの下には地獄なんてないし、僕らの上には空しかない。
すべての人々が今日のために生きているんだと思ってごらん。
国境なんてないと思ってごらん。難しいことなんかじゃない。
殺し合う理由なんてないし、宗教なんてものもない。
すべての人々が平和の中で生きているんだと思ってごらん。
君は僕のことを夢想家だというかもしれない。
でも僕は一人じゃない。
いつか君も僕らの仲間に加わって、
世界がひとつになればいいと願っている。
財産なんてないと思ってごらん。君にできるかな。
貪欲も飢餓もなく、人間はみな兄弟。
すべての人々が全世界を分ちあっているのだと思ってごらん。
君は僕のことを夢想家だというかもしれない。
でも僕は一人じゃない。いつか君も僕らの仲間に加わって、
世界がひとつになって生きていければいいと願っている。
2001年12月15日掲出
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「日本人してますか?」
着物を通じた日本文化
くまもと21の会未来委員会
上田晃輔
有限会社上田和裁技術研究所 代表取締役
私の仕事は「着物の仕立て屋(和裁業)」です。仕事柄から着物を着る機会があるためよく着用してます。もちろん着物は大好きで着物というアイテムで、日本を表現できる幸せを感じております。ということで着物を通じての日本文化についての私の考えを綴ってみました。
明治元年が1868年だというのは歴史の勉強でおなじみですよね。数えてみるともう133年も前の事です。維新以来、文明開化が叫ばれ、西欧の文明・文化が押し寄せてきましたし、第2次世界大戦後はアメリカの文物の攻勢が激しく、日本独自のものはすっかり影が薄くなってしまいました。日常生活がすっかり便利になったのはありがたいのですが、日本人が心身ともに本来の日本人でなくなりつつあるのは少々心配です。ふだんはこれを当たり前だと思いがちですが、考えてみると不思議なことだと思わざるを得ません。
現代日本人は、もはや衣食住、あらゆる面でほとんど外国人しちゃっているようです。私も例外だとはいえませんけど…。
「衣」から考えると女性は成人式に着物を着る人が多いようですが、結婚式ではウェディングドレスが圧倒的に多く、お色直しですらドレスのほうが優勢みたいです。男性は、着物を着ないまま一生を終わる人も多いのではないでしょうか?それでも花火大会などで若い人達が浴衣に下駄をはいていたりするのは、見ると嬉しいものです。
「食」について。今や若い人はハンバーガー中心に生きているようです。たまにはリッチにイタメシですか?西洋料理のマナーは知っていても、懐石料理はつい敬遠してしまうのが今時の日本人といえましょう。
「住」についても同様、椅子生活で足が長くなったらしいのはいいですが、正座できない人ばかりで、お葬式ですわっていたら、足がしびれて立ち上がれない人も多いとか…。
「現代日本人とは、日本の事を知らない人のことだ!」といった人がいました。私も反省です。
私は仕事以外の時間は、洋服で過ごしておりますが、それが当たり前ですよね。着物着ている方が、何をしている人?何で着物?と疑問に思われます。それだけ特別な所に置かれている衣装だというのは現実です。着物姿をみてほとんどの人が「いいね〜!着物は好きです!」と口をそろえて言いますが、でもね…自分が着るのは、ちょっと…?それが今の日本人の本音でしょう。
「着物」とは?問われれば誰でもが「着物は日本人の民族衣装」と答えるでしょう。しかし今の着物ははたしてそうでありましょうか?冠婚葬祭の場における女性の正装の一つであるとは言えるのでしょうが、日本民族の普段着ではもはやないのも、否めようのない事実でありましょう。多くの女性にとっては、着物とは一生のうちに何回着るか分からないもの、自分では着ることもできない厄介で不便な衣装になっています。日常生活から完全に浮き上がった非日常的な儀礼の場のための、非日常的な装束であります。着物は日本人が「日本人」を演出するときの服装であり、「日本人」であるときの服装ではなくなっています。しかも民族衣装であるとすれば、着物がさぞかし日本人に大事にされていると想像しますが、これも大違いであります。もっとも高名な着物の産地京都西陣では、着物織り職人が本業で生活できなくてトラックの運転手をせざるを得なくなっています。室町時代以来続いた伝統が今少しずつ失われようとしてます。日本が世界に誇れる貴重な「日本文化」でありますが、そのいずれも、早かれ遅かれ、存続の危機に瀕していると言っても過言ではありません。何で自分たちが持っている素晴らしい民族固有の文化を立ち枯れさせても無関心でいられるのでしょうか?
社会のグローバル化が進む中、真の国際化を行うためには、自分たちの文化の本質を見極めて生活に利用ができ、かつ外部に発信、伝達可能なものにすることが必要だと私は考えています。着物をきちんと見直して、ニホン社会での日本文化の本質を見極めに貢献し、この熊本から21の会を通して発信していきたい。行動コンセプトとして
1.きものを簡素化する
2.機能的に優れた洋服の技術を導入
3.着物の長所を強調する
4.日本文化・伝統と着物のリンク作り  
着物の世界でとどまらない視点で活動を行い、様々なジャンルとつなげることで着物をオープンなものにしていきたいと考えてます。
もうすぐ正月がきます、活動的な女性が急に着物をきたくなったり、ファーストフードになじんだ舌がおせち料理を恋しがったり、クリスマスを一週間前に終えて信心はともかく初詣にでかけたりと、日頃興味も示さなかった日本的な文化の関心最盛時期をむかえます。皆様今年こそ着物で正月はいかがですか……?
2001年11月29日掲出
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想うこと
くまもと21の会 未来委員会委員
福島 富雄
ソニー生命保険株式会社
先日、母親の誕生日祝いをかね、両親と姉と最近見つけたちょっとオシャレな居酒屋へ食事にいきました。その時に昔の事(自分が子供の頃)を思い出しました。
 自分の姉は知的障害者です。MA(精神年齢)はだいたい2〜3歳です。自分が大人になったというわけではないんでしょうが、今の社会は障害者に、圧倒的に優しくなった気がします。20年位前、家族でレストランとかに食事に行ったときの姉に対する対応や周囲の目というのは、非常に厳しく辛いものでした。言い換えるなら、キチガイを見るような目でみられたり、扱われたりしたことを記憶しており、幼い頃はなかなか外食(入店拒否)もできず、姉や親を憎んだりしたことがありました。
 「なんで、自分までが変な目で見られなんとや!!」「なんで自分までキチガイと見られなんとや!」という気持ちでいっぱいでした。
 でも今、思うと自分の両親は凄いなと思うことがあります。そんな時代だったので当然、周りの視線や対応には両親が一番辛かったことと思います。でも両親はその当時でも姉をどこにでも連れて行き、自分とか妹には「姉はどんな状態であれ姉なんだ!差別はするな!」と常々言い聞かされました。言い換えると、「姉が兄弟の仲では一番偉いんだ!」と言いきかされ、決して姉の事を軽蔑するような事を許しませんでした。これは今でもそうで、姉のほうも自分たち兄弟の仲で私が一番上と思っています。後で知ったことなんですが当時は(今でも家庭の事情によりあると思いますが)知的障害者の家族を隠すために施設にいれたりすることが非常に多かったといいます。また、周りにそのような障害者がいることを隠している家庭も多かったそうです。
その中での自分の両親の行動は今では凄いなあと思います。当然社会全体が障害者に対して軽視している状況でしたので教育に対しても熊本県は最悪の状態でありました。昭和55年頃までは知的障害者の教育については養護学校が中学までしかなく、熊本県には高校すらなく、当然中学卒業後の公営の施設等は皆無に近い状態でした。そのために自分の両親たちは懸命に行政に働きかけ、県立の養護高等学校の設立や高校卒業後の生涯教育施設の設立に頑張っていたこと覚えています(そのために自分や妹のPTA活動は皆無でしたが・・)。
 自分は、21の会でもよく議論しているテーマなんですが、最近の子供の教育については、ある意味では前より優しくなっているんじゃないかな?と思うことがよくあります。それは社会全体の教育のおかげなんでしょうが、今、姉と一緒に歩いたり、食事に行っても変な目で見られることもありませんし、かえって自然に席を譲ってもらえることが多くなってきているように思います。また、障害者施設や、今増えつつある老人福祉関係の施設(老人保健施設や痴呆専用の施設など)で働く人も若い人が多くなってきてます。話を聞くと福祉の仕事がしたいからと自ら積極的に福祉関係の勉強をし、夢をもって働いている子がいると聞くと今の教育も間違ってないのではと思うことがあります。当然その反面常識がない子も増えてますが!!
 最後に、自分の姉は熊本市立の施設(平成学園)に毎日通ってます。あまり知られてない施設ですがいつか21の会で視察にでも行けたらと思います。これからの熊本はもっともっと福祉の充実した街になってもらいたいな!!
2001年11月7日掲出
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出会い
くまもと21の会 経営委員会委員
高濱 健児
有限会社タカハマ緑幸 工事部長
 なに書こうかな〜と、いろいろ考えていましたがなかなか思いつかないので、まずマイストーリーからお話しましょう。「タカハマ」という苗字からも、もともと山の人(大津)ではありません。じいちゃん・ばあちゃんは海の方の人です。
 昔々戦争の時、長男ではなかったじいちゃんは、畑を分けてもらえないのでばあちゃんと台湾へ開拓へいきました。でも、終戦で日本が負けてしまったので、日本へ帰らねばならなくなりました。その時(他国でも)植民地に行っていて悪いことをしていた人たちは、帰ってこれなかったそうです。「じいちゃんは、よかひとだったけん、1番に帰らしてもろたっぞ」と、よくばあちゃんから聞かされました。そしてまた、大津の山奥に来ました。山を切り開き、谷を埋め、畑を作ったと言います。もちろん人力と牛とかの力だけです。だから今でもばあちゃんは、牛は食べません(正直大学生になるまで我が家で牛肉を食べたことはなかったです)。「牛ば食うと、ばちんあたっとぞ」と言います。だから、ばあちゃんと一緒の時は食べません。ちょっと変わった動物愛護ですけど、今思うとペットとは違う、人と動物との大事な関係を教わったと思います。こんな田舎ですから店も1件もないところで、すくすくと野ざらしで育てられました。山と川が友達で何でも使って遊んでました。
 つい先日、地元新聞社の会長さん宅に藤棚(ぶどう棚)を造りに行った時、「今は子供の新聞配達はおらんですね」って話が出て「今ん子は、親がなんでんすぐこうてやっけんね」という話で盛り上がりました。確かに自分で努力しないで、物を与えられすぎていますもんね。野放し教育だった私は、オヤジから「自分で買ってすった」とういことで、小学3年から高校3年まで地元新聞とジャイアンツ新聞を、1件、1件が何百メートルの山の中を配達しました。
だからチャリンコは得意で10歳ぐらいから、ちょろっと阿蘇へとか、ちょろっと市内へとか、よく行方不明になって帰って来れなくなっていました。「あの山の向こうは何があるの、西に行けば海がある」とか、思い立ったが吉日、大変人騒がせな子でした。そんなある日、北海道の写真を見て「こんな地平線のところで生きたい」と思い、ガソリンスタンド、皿洗い、工場、建設現場などなどバイトしまくりで、16歳の夏にオートバイで行きたいと企みました。
 朝も夜も夜中も(合間で町の道場で空手)、たぶん今の新卒社員くらいは稼いでいました(ガソリンスタンドは内緒で1月分ボーナスももらってた)ので、高校生にして使う暇がないのに400cc2台・250cc1台持ってて(でも20年も30年も前のやつ、修理するのが好き)、いざ、明日家出していくぞという時、バイト先のおばちゃんにチクラレ学校にもバレ、あわや失敗に終わる。でも後で思うと失敗でよかったかな。余計に卒業したら行くぞと思い、バイトに励み暇なしのため車まで買っちゃた(これまた自分同い年の古い車)。学生の間はテントと寝袋をもって、休みの時は日本1周やら、北海道、沖縄(あまり帰って来ないので家から捜索願寸前)などなどバイトしながらグルグル旅ばかりしていました(なぜか出る時より帰ってきたときの方が金持ち)。しかし、北海道にも本当の地平線はなく(330度くらい)、「行きちゃあ〜」気分になりその時クラッシックカーブームもあり高値で売却でき、1度は手放すけどまた買うぞと、古い車を手放し、ロスからニューヨークまでオートバイで大陸横断、もちろん得意の「思ったが吉日」作戦のため、英語なんかペラペラの熊本弁でジェスチャーオンリー(でも、面白いもんで帰るころにはなんとか、しゃべれるようになりました)。バイトも色々やりってたくさんの事を教えてもらいました。

 高校生の時のガソリンスタンドでのバイトが1番の人生勉強でした。さっきもチョッと書きましたけど、内緒でボーナスもらった話です。人より早くから遅くまで自分で仕事は探すもの、「見ている人は見ている」ということです。「卒業したらうちに来ない」って言ってもらってまたやる気が出る・出させてもらうと、いう大事なことを教えてもらいました。だから、大学生の時のバイトは、そこの親方(社長・上司)にそれを言わせるの目標が出来たことが何よりの勉強になりました。造園屋さん以外でもやったけど、何より後でためになったのが、金なし学生だったので整備工場や板金屋さんに「無償のお手伝い」をさせてもらう代わりに仕事が終わられたら道具を使わせてもらって自分の車やオートバイを触らせてもらって、車検・板金・塗装・溶接・FRPなどなどを、ちょっとだけ出来るようになったことです。造園(ランドスケープ)をやる上で技術的・知識的に、又一人でやってる人、大規模の会社で同じ事をやる場合のノウハウと段取りが学べたことです。今でも、そのガソリンスタンドやその他のバイト先の人達にお世話になっております。人との出会いそれが1番の財産だと思います。そのおかげでいろんな旅をさせていただき、たくさんの思い出と、たくさんの友達ができました。 パンクして4時間も押して助けてもらったこと・ケガしてお世話になったこと・雨宿りしてたらナンバーをみて「俺も、熊本出身たい、泊ってけ」と言われ3日も泊まったり、たくさん、たくさんお世話になりました、今でも年賀状1枚でお付き合いさせてもらったり、カライモ送ったり、イヨカンもらったりしています。昔からかわいい子には旅をさせろと言いますが(私の場合、可愛さ余って、憎さ千倍…かな)、旅は本当にいいもんですね。いま私は、くまもと21の会というところで旅をさせていただいております、ここでたくさんの事を教えていただいて、素敵な思い出を作って、それをかわいい子供たちに、そして大好きな熊本を伝えるために。
・来年の目標 21の森つくり・ツリーハウスを建てる・アーチとパーゴラをバラでいっぱいにする・1日くらいかみさん孝行する・夢と遊び心のある庭をもっと作る
・信念 初心忘れるべからず(最初ときめいた心を大切に)・常にロマンを持つ
 最後に21の森つくりを通して、色んなひとつくり、まちつくりを、がんばりましょう。
2001年10月09日掲出
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今日の私、明日の私
くまもと21の会 総務委員会委員
横瀬一成
アリコジャパン
今年私のお客様二人がガンになりました。
一人は、48歳の男性、もう一人は、45歳の女性です。
どちらも幸いなことに現在は退院して元気で働いておられますが、お二人に共通なことがあります。
それは、ガンに罹患して「家族との絆が深まった」ということです。
男性は、それまで不仲だった高校生の娘とそれぞれのことを思いやれる存在になったとのこと、また女性は、医師であるご主人がいつもご家族と別の行動をとっていたことにより家族がばらばらであったのが、素直にお互いのことを認め合い連帯感が増したとのことでした。
「人間」と「情報」という講演を先日聴きました。
講師は、養老孟司氏(北里大学教授)です。
私たちは、毎日様々な情報に囲まれ、また、そのめまぐるしく変わるスピードに戸惑っている感があります。
反面、私たち自身は、自己変革を求められる時代にありながら変われない自分に苛立ちを覚えたりすることもあります。
しかしながらよく考えてみると…という話です。
情報は、止まっている存在であり、人間こそが日々変化している存在なのだということです。
その証拠に、10年前の講演テープは、一言一句その当時から変わっていません。
新聞の記事にしてもしかりです。それに比べ私自身は、10年前と現在とでは、全く別人のようです。同じ情報から受ける印象も全く違います。
現実に、変わろうと力まないでも日々変化している自分があるのです。
この講演を聴きながら様々なことを思いました。
家族のこと、仕事のこと、川辺川ダムのこと、21の会のこと
情報は過去の存在!? 人間は未来の存在!?
私は、毎日生まれ変わっています。ある意味では昨日の私は全く違う存在なんです。
過去のわだかまりにとらわれる必要なんて全然ないんです。
明るい未来・良い未来につながる生き方が出来る。
それが生きてる人間なんだ。
2001年09月20日掲出
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光る風の中で…
くまもと21の会 総務委員会委員長
米村 勲
有限会社ふそう印刷 代表取締役
 久し振りにオープンエアーモータリングを楽しんだ。阿蘇への移動例会の足に、ロードスターを選んだのだ。リアウインドウの埃を払い、ジッパーを引き、ロックを外し、幌を押し上げる。朝の冷気が足下に流れ込む。軽くアクセルペダルを踏み込み、エンジンキーをひねると、ボワンとエンジンが目覚める。軽くアクセルを吹かし、ギアをローに入れ、静かにクラッチを繋ぎ、通りに出る。どのルートで走ろうかと考えながらも、会社に立ち寄る用事を思い出したので、おのずから俵山越えと決まった。少々時間に遅れ気味だったので、法定速度より高めのスピードで、ワインディングロードを駆け上る。 きついコーナーでは、早めのブレーキング、3速から2速へシフトダウン、ステアリングを切ると、鼻先の軽いロードスターはクイと進行方向を向き、アクセルオンで、気持ちよくコーナーを抜けていく。トルクのないエンジンだが、軽量なため、ギアを落とし高回転を保ちながら走れば、きびきびと走る。台風11号の接近で、風が強かったが、それがかえって山の風景を生き生きとしていたように思えた。夏の名残りの太陽はまばゆい光を降り注ぎ谷から尾根に抜ける風は光輝いていた。抜けるような青空と手を伸ばせば取れるような綿菓子みたいな雲、オープンエアモータリングの楽しみは光と風と一体になれること。数台の遅い車を抜き、5分遅れで童謡館に着いた。

童謡から考える…
 童謡・唱歌といえば、今ほんとうに歌わなくなった。テレビもラジオも若者向けのランキング番組ばかりで、数カ月で消えていく歌ばかり、永く歌い継がれていく歌は数曲有りや無しや。しかし、童謡はそれ以上に聞いたり歌ったりする機会がない。童謡・唱歌でも歌謡曲(とても古い響き)でもPOPSでも親が聞いたり歌ったりしている、その側にいる子どもたちの記憶の底に自然と残っている、そんなものだと思う。幼い頃母親や伯母が事あるごとに歌ってくれた童謡・唱歌は今も心象風景として記憶の底にあり、時々フラシュバックとして現れることがある。春の麗らかな日に寺原の坪井川沿いを行くと、小さい頃この辺りで遊んでいた思い出が甦る、その時の歌は「めだかの学校」であったり、題は思い出さないが「七色の谷を越えて…風のリボン…」。梅雨の時期になると、「雨あめふれふれ…」と長靴を履き、ランドセルを背負って学校から母と一緒に帰っていく情景が目に浮かんでくる。夏の入道雲を見ると、「夏の思いで」や「遠き山に日は落ちて」、秋には「あかとんぼ」、冬には「お正月」や「冬の星座」、真冬に南の空に輝くオリオン座を見ると、つい口から出てくる「…オリオンまいたち、すばるはさざめく…」。その他には、「桃太郎」、「花咲爺」等々、童謡ひとつからでもいろいろな事が考えさせられる。たくさんの童謡・唱歌があるのに何故私たちは歌わなくなったのか。
小中学校では音楽が必修だが、高校になると選択になり、急速に学校音楽から遠ざかり疎遠になる。また、歌詞が現在の世相と結びつかなくなって、音楽教科書から外されていく、そんなこんなで益々疎遠になる。「荒城の月」も教科書から除かれたそうだ。明治期の西洋音楽を取り入れ、美しい日本語と西洋音楽の旋律との調和、こんな素晴らしい歌曲を学校で教えない、日本の素晴らしさを教えなくて、文部科学省はどんな日本人を創ろうとしているのだろうか? 毎日のようにマスコミで殺人や、幼児虐待が報道される殺伐とした社会、科学万能社会、高い進学率に支えられた受験体制。人間関係や、親子関係に悩む思春期の一番大切なこの時期に受験のための勉強さえすれば後は何もしなくてよい。甘やかされて育った子ども達が、簡単に性交渉を持ち、簡単に子供を生む。身体は大人でも、精神は子どものままの親が増えているのだろう。その子ども達の親の世代が我々団塊の世代であり、その責任は大変重いと思う。この変革の時代と呼ばれる昨今にあって、今程私たちが真摯に社会の事、家族の事を考え、素晴らしい熊本、否、日本を創るようにしなければならない。いろいろな社会の矛盾が今吹き出して来ている。そのため「くまもと21の会」で活動している私たちはいろいろな分野で影響を与える事ができるよう、日々努力しなければならないのではないだろうか。
2001年08月31日掲出
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人生意気に感じ、
感動する
くまもと21の会 経営委員会委員長
上村幸廣
有限会社アップレッジ 代表取締役
 Do-Gangにいよいよ指名されたので、いざ、書こうとしたら、自分の無趣味や文章力の無さに、あきれ果てながら、直近で感じたものを書けばいいかと思いながら、開き直って書き始めました。
 実は、7月の21MIX(*注)、大学生でありながら経営者である、若者の話を聞こうじゃないかという話になり、2名の若者の話を聞きました。最初は対象者がいるだろうかとか、どのような感じになるだろうかとか、心をよぎったものですが、話を聞いて、純粋な心で、高い理念を掲げ取り組んでいる意気込みとか、自分の理想に一歩でも近づこうと努力している話を聞いて、心意気を感じたし、感動を覚えました。まだまだ、若者も捨てたもんじゃなかばいと思いました。
 実際に世間では、「今の若い奴らは何ば考えとっと?」とか、「ちっとん解らん」という声を聞いたりしますが、これだけはっきりした目標を持っている若者に出会ったのは初めてでしたし。言うだけでなく、自己実現に向けて実際に行動している姿は、外見の童顔っぽくて、幼さを感じる風貌からは想像もできませんでした。
 自分を振り返っても、将来の目指す方向性がわかりだしたのが30歳頃だし、目標なんて大それた事は考えない安定志向に入っているし、50にしてまだまだ迷いっぱなしの人生を送っている中年オヤジでしかない自分と比較しても、純粋なだけに応援したいし、危なっかしいけど理想実現のため頑張ってほしいと期待する次第です。
 そうは言っても、反省=これが俺の人生たいと開き直りで楽しく送っている日々ですが。
 これってもう進歩が止まってしまったのかな?
 もともと、スポーツやドキュメントを見ていても、一所懸命頑張ってきた話や、苦労して勝った話や、残念ながら負けた話を聞くと、過去、体育会系で所属して頑張った思い出が交錯して、胸が熱くなり、目が潤んでしまう性格なもんで、その若者の純粋さに、感動し、意気に感じました。
(*注)21MIXとは本年度経営委員会の略称・通称です。

 話は変わりますが、私は、くまもと21の会に誘われて入会したわけではありません。東邦生命に在職していたため前任と交代して、最初から副幹事長としてポストに尽き、ただ淡々とこなしていたと言っても過言ではありませんでした。そういう意味では異質な立場の会員だったかもしれません。でも、そうこうするうちに、この会は自分から積極的に関わりを求めていかないと、何時までたっても会に所属しているだけになってしまうと思い、できるだけ多くの委員会に出るようにしているうちに、他の会員と打ち解け、お酒も飲むようになり、ちょっと一端の会員になったかなと思うようになりました。それと同時に、いろいろな講師の方々の話を聞き、その話に驚きや、感心や、感動を覚え、人との出会いが楽しみになってきたのであります。もちろん全部ではありませんが。
 私にとって、21の会は人との出会いの場であり、意気に感ずる場であり、感動を得る場だと思っています。少し大げさになったが、自分の人生は少し意気に感じ、少し感動があれば、その人との出会いは充実したものになるし、人生は楽しいものになると考えています。
 若い時、会社の上司に、品性を磨きなさいとよく言われたことがあります。品性なんて簡単に磨けるものでもないし、まして、夜な夜な飲みに行くと狼のような目をして飲み回っている自分が磨けるわけないだろうと思ったものです。ところが、しばらくしてその上司は、品性陶冶のことを言っているのだと言う事が解ったのです。
 「人がらや人格を磨き、そのことを持って人材を育成する。将来、威厳や肩書き、過去の実績だけで人の上に立っても人の指導や育成は出来んばいということを言いたいんだ」という事を言ってくれたのです。
 もうこの年になって、品性を磨こうとは考えていませんが(磨いても錆びだらけだし)、少なくとも相手に対して、意気に感じ、感動が与えられる人間になれればいいなということを目標に、これからも21の会にかかわっていきたいと思っております。
 それが、少しでも錆び落としになればと思いながら…。
2001年08月01日掲出
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趣味
くまもと21の会 経営委員会委員
田中英一
田中病院 院長
 皆さんはそれぞれいろいろな趣味をお持ちと思います。私はどちらかというと多趣味の方ですが、私の趣味について少し書かせていただきます。

戦略と戦術
 9年前、知人に誘われて4人の仲間と一緒にヨットを購入した。皆、ヨットの経験は皆無に近かったが、ヨットに対するあこがれのような気持ちだけで参加した。大矢野島に係留し、週末には有明の海でクルージングを楽しんでいた。酒と食料を持ち込み、ある時は若大将気分で、またあるときはアラン・ドロン扮するトム(映画:太陽がいっぱい)になりきり海の男もどきを演じていた。勿論、美女(?)が同船していたのは言うまでもない。成合津には多くのヨットが係留しており、それぞれにヨットマンとしてヨットライフを楽しんでいたが、ある時、何も知らない5人組がヨットを持ち込んで週末には違った女性を連れて遊びに興じているのをみて、いつしか我々の船を”ナンパ船”と呼んでいた。当然のことながら、軟派な奴らがいつも女をナンパして、いつ難破してもおかしくない未熟な経験と技術であることからそのように呼んだに違いない。
6年前、初めてヨットレースなるものに参加した。11月の寒い暴風雨の中でのレースだった。仮免許中のドライバーがいきなり土砂降りの中でのラリーに出場するようなもので、ヨットを操縦すると言うよりもただしがみついていたという方が正しいくらいの状況だった。以来、少しずつレースに参加する機会が増え、ナンパ船は次第に体育会系の船に変貌していった。
 ヨットレースは天候や地形、あるいは潮流などに影響を受ける。状況判断と決断が結果を大きく左右する。現状を把握し、次の瞬間をさらにその先の変化を予測してコースを決定する。また、ヨットをその時々の状況で最大限に走らせるためにセールの調整やバランスの調整などをこまめに行わなければならない。すなはち、状況を見極め戦略を考え、それにあった戦術を選ぶのである。大きなミスをなくし、小さなミスを最小限にとどめることが肝要なのだ。最近では、上位入賞も幾度か経験し、昨年は八代で行われたレースで優勝することができた。戦略と戦術をキーワードにして、これからももっと精進していきたい。

田中委員のガイアII号(レース中)
興味
 私の趣味の一つにリアルバードカービングがある。一塊の木材を削り、彫って鳥を作るのだが、できる限り細部にわたり羽の一枚まで精密に彫り、色付けをし、本物より本物らしく仕上げることを目標にしている。バードカービングと出会ったのは、1983年アメリカに留学していたときである。ある店のウィンドーディスプレイを見ていると、そこに剥製と見間違えるほど精巧かつ緻密に作られたカモの木彫が飾られていた。これはすごいと思いつつも、こんなものどうやって作るんだろうと首をかしげながらその場を去った。しばらくして、立ち寄った本屋でバードカービングに関する一冊の本を見つけた。その本を購入し、見よう見まねで本に載っている小鳥や鴨を2、3作ってみたのが始まりだ。そのうちに他の野鳥も作ってみたくなったが、鳥のことは皆目わからない。もともと細かいものを作るのが好きで始めたのであって特別に鳥に興味があったわけではなく、小鳥といえばスズメ、ちょっと大きければハトかカラス程度のことであった。
形、大きさ、色まして生態については何もわからず、教本がなければ独自の作品はまったく作れない有り様だった。それでも十数年、本、写真、テレビ、博物館などに数多くの資料を見い出し、さらに自然観察(バードウォッチング)を通して少しずつではあるが鳥の生態も見えるようになってきた。創作技術もくり返し行っているうちに、また、試行錯誤や情報交換していくうちに徐々にうまくなってきたように思う。シジュウカラやエナガなどをもっと身じかに観察するために餌台を作るとヒヨドリやキジバトに占領されてなかなか思うようにならなかったりするが、意外と街中でも街路樹にいる小鳥に目をやると目当ての小鳥であったりする。興味がなければ見えてこないことを実感する瞬間だ。興味を持つことが何事でも始まりとなり、それを維持していくことで見えない世界が見えてくる。

田中委員と自慢の作品
愛情
 5年前、白川河川敷で開催された植木市に行った。何を買うわけでもなくぶらぶらと見て回っていたが、ある店の棚に置いてあったモミジの盆栽に目が止まった。しばらく眺めているうちに、盆栽も悪くないなあと思いそのモミジを衝動買いした。冬の時期だったので葉はなく枯れ枝状態であったが、何となく枝振りが気に入った。早速盆栽の本を数冊買い込み、盆栽のABCを勉強した。植え替え、剪定、芽積み、葉刈り、施肥、消毒などなど意外と手間がかかる。最低でも毎日の水やりは欠かせない。良い盆栽には威風堂々としているもの、雄大さを感じるもの、清楚なものなどいろいろあるがどれも品がよい。素材の善し悪しを見抜き、将来の姿をイメージし、実にゆっくりではあるが10年、20年あるいはそれ以上かけて作品を丹精込めて作り上げるのであるから自ずと品格が備わってくるのだ。私の盆栽棚には100鉢近くの盆栽が並んでいる。
毎日見ていると、たとえ駄木であっても愛着がわいてくる。本来なら筋の良い素材であるかもしれないが、それを見抜き育て上げるにはまだまだ実力がない。しかし、愛情を持ってこつこつとゆっくりではあるが手をかけるとそれなりに育つものだ。
 そのほかにも、ゴルフ、テニス、ラグビー、ラジコン飛行機、鉄道模型コレクションなどいろいろなことに興味を持っています。当然のことながら、これらすべてを極めることは不可能で私の趣味はすべてが中途半端ですが、人生を豊かにしてくれてると思います。仕事においても興味を持って、こつこつと愛情を注ぎ、戦略と戦術を持って日々努力するしかありません。いささかこじつけではありますが、好奇心を失わずこれからも懲りずにいろんなことに挑戦していきたいと思います。
2001年07月17日掲出
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おにぎりからおむすびへ
進化するくまもと21の会
くまもと21の会未来委員会
委員長 緒方尚枝
有限会社おがたのごはん 代表取締役
 おむすびとおにぎりの違いをご存知でしょうか。
 高校時代、古典の授業で、おにぎりとおむすびの違いの話を聞いて、大変感心したことを毎朝おむすびをむすびながら思い出しています。
おむすび 「おにぎりは、丸でも俵でもハート形でも、どんな形でもいい、おむすびは、三角でなければならない。古文の中にカンムスビノカミ(神結びの神)というのがありますが、カンニギリノカミとは、けして言いません。縁を結ぶといいますが、縁をにぎるとは言いません。」
 多少物理的な言い方をすれば、「むすび」は結晶であり、「にぎり」はたんに圧力による集合体(カオス)と言うことになります。精神世界でも、原子の世界でも、私たちのくまもと21の会でも、同じ法則が働き相似像の世界を現しているように思います。
 何の関係もない人たちが、知らず知らずに集まり、カオスのごとき混沌としたなかでの活動が最初だったと思います。ひととして、親として、経営者として、様々な悩みや困難を持つ人たちが、共に考え、共に育ちながら8年が経ち、少しずつ共通の意識が生まれ、意識の結集がすすみ、あたかも結晶構造が出来つつあるように思います。
 くまもと21の会設立時には、ハッキリとした理念がありました。しかし、20世紀的理念・理想は、揺れ動く心を持つ者には外圧、押し付けとしか機能しなかったように思えます。今、一人一人の心が理念を越えて接点を持ち、共鳴し無意識のむすびが生まれはじめています。その意識になじまないと感じているものも、もちろんいないわけではありません。
ただ、おもしろいことに21世紀になったとたん皆ハッキリとした意志表示をしはじめたような気がします。対外的に「志」を「かたち」にする者、対内的に自分の可能性に目を向けていく者、それぞれが完全な自由のなかで「志」を「かたち」にしてゆく、そのなかで会員の間に見えない結び合う力が働き始めています。
 原子レベルで物質が結晶していくときに何が力となり規則正しい法則にのっとった結集をするのでしょうか。ダイヤモンド(炭素の結晶)、水晶(珪素の結晶)、雪(水の結晶)、どれも固有の波長をもち、分子を一つ一つ呼び寄せていく。本質的な性質が仲間の共鳴を呼び連帯していくのでしょう。理念やイデオロギーの枠のなかで起こるのは、試験管の中での人工結晶。自然にできる天然結晶の方の価値が高いのは言うまでもありません。
 くまもと21の会は、会員相互のふれあいのなかで、人とのむすびの大切さ、人づくりの重要性を感じながら、今、混沌とした枠の集団から炭素のむすびのダイヤモンドのような輝きが生まれはじめています。
 それが、たんににぎった「おにぎり」から三角の「おむすび」へ進化しはじめたことではないでしょうか。
  “握る両の手の山がつくるおむすび。
  そのおむすびが産む新しいつながり。
  微生物から宇宙まで、人と自然と神様まで
  過去から未来まで縁をむすび、むすんでつないで「わ」ができる。
  一人ひとりの気持ちが響きあい、穏やかに寄り添い、大きな渦になる。”
 そんなくまもと21の会を、仲間を私は大切にしたい・・・
2001年06月09日掲出
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子供の未来のために
くまもと21の会 事務局次長
湯田崇弘
加藤神社 権禰宜
 子供の日、ふとテレビに目をやると、昨年の連休中に起きた少年のバスジャックのニュースが流れていました。昨年頃から少年の犯罪や幼児虐待などが後を断たず家庭の崩壊、社会の歪み、教育の誤りなどいろいろな問題が浮き彫りになってきました。「子供は親の通信簿」と言うように、我々大人は、今の状況に目をそらさず、真正面から子供と向い合って、大人の将来のためではなく、子供たちの将来のためにできることを考え、導くという使命があります。
 私が奉職する加藤神社には、今年26年目を迎える子供会があります。子供たちとは毎月1回接していますが、その中でいわゆる「昔の子」と「今の子」を比較しますと、
 一つは、挨拶が下手になっているということを感じます。挨拶は、コミュニケーションのスタートであり、そこでつまづいてしまっているのが現状であり、その原因が家庭での躾に問題があることは否めません。
 二つめは、子供の目に活気が足りず、せっかくの澄んだ目がもったいないと感じます。ただ単に経済的に豊かである国より、夢を持てる国の子供のほうが透き通るような目をしています。
 三つめは、いじめの問題です。当子供会には感じませんが、その質が陰湿になっているようです。何時の時代もいじめはあった筈です。
ただ昔は、いじめっ子は、その後にフォローしたり、思いやりの心を持ったり、いじめられっ子は、抵抗し対抗する力強さを手に入れていました。社会の荒波で対応できる、生きていく上で必要不可欠なものをそこから学んでいた筈です。
 話は変わりますが、先日の憲法記念日にある新聞にある意見広告が載っていましたが、そこに「教育勅語」は、家族や夫婦や友人のことなど狭い範囲での事しか書かれていないが、「教育基本法」は、もっと広い範囲での法であり、現行のまま改正する必要のないものとのことでした。思想信条の違いがあるのは分かりますので、改正か否かについては敢えて申し上げませんが、「教育勅語」の中の徳目を、狭義で単純というような理解認識は非常に浅はかであり、残念でなりません。たとえば、夫婦の道は【夫婦相和シ】と短い言葉で記されているが、【和】の「禾」は「米」を表し、「米」は八十八回(それぐらいの手数)をもってなされる作物であり、「禾」を「口」にするということは、苦労を共にし、糧として、共に「口」にし幸せを感じ、感謝するということです。文字を解読しただけでも意味深長なるものを感じます。更に考えると、夫婦の絆が強ければ子供たちは、安心感と家族への信頼感を高める。そして、そういう環境で育った子供が未来の日本を形成していく。これが単純で狭い範囲でしょうか?

お仕事着の湯田次長(中央)と21の会役員
 先ほど申し上げた「挨拶」の問題も決して難しいことではなく、単純なことのようですが、非常に意味のある大事な行いです。難しいことを躾する前にもっとごく基本的なことを教えることが肝要な事ではないかと思います。
 子供たちを導くのには、会話をすることの重要性を感じますが、今それが最も危機的状況にあります。IT化の波は、子供たちにも浸透していますが、町などで見かける、皆下を向いてメールを黙々と打つ光景はまさに異常です。手紙という伝達手段がメールになったことは、ある意味理解できるし、リアルタイムで想いを伝えられるのはすばらしいことだと思います。しかし、全ての会話をメールで行うようになったら、それはとうてい理解できないし、口から発する言葉の力《言霊》を失えば、文化は廃り、人と人との繋がりが希薄になり、真の感情を表せない表情のない子供を作っていく可能性があります。「メールは使うもので、使われるものではない!」と思います。今子供たちは、バーチャルリアリティーの中でしか夢を持てなくなりつつあるようです。その為にも我々大人は、子供たちと生きた会話をする中で現実としての喜びや悲しみを分かち合うような努力をしなければ取り返しのつかないことになりかねません。
 会話の力は、「いじめ問題」においても同様に重要です。NHKの「あすを読む」という番組の中で、昔の親は、いじめの相談を親や近所の人に相談し、それを受けた人も親身になって応対していたが、今はお互いに関わりたくないということがあり、まず専門の相談所に相談するそうです。大人社会がこういう状況ですから、子供たちは困っています。頼れる人を探すのに…。
 21世紀の日本の未来を担う子供たちのために、まず大人が今を見つめて良い環境を整えてあげることが重要です。「何で産んだんだよ!」という世の中ではなく、「産んでくれてありがとう!」といわれる世の中にしなければと心から思っています。
 まだまだ子育ての経験の浅い私が、偉そうに書きまして失礼をいたしました。自分に言い聞かせながらでしたので勉強になりました。最後に、ある西洋の哲学者が言った子育ての指針で肝に銘じるようにしていることを書いて終わります。
「思いやりのある中で育った子は信仰心を持つ」
「励ましを受けて育った子は自信を持つ」
「心が寛大な人の中で育った子はがまん強くなる」
「褒められる中で育った子はいつも感謝することを知る」
2001年05月10日掲出
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この頃雑感
くまもと21の会 幹事長
菊池秀昭
有限会社キクチ 代表取締役
<まぁ〜た叩いてしまった、困った、シマクラ…(;_;)>
 菊池が書くとおかしいですが、ゴルフについての一考察。ピポッピポッパフパフ。
二日続けてプレーしてしまいました。二日続けて100叩きをしてしまいました(正確には100、105ですが)。実は、その前二日熱心に練習にも行きました。どうだ、どうだ、ドゥオ〜ダッと! 夕日に輝くハンドルを握る手に落ちた涙は、疲れから? 自分に対する悔しさか? ゴルファーなら誰も経験したことなのです。
<スポーツを舐めてはいけません>
 まだ青年期だった頃、毎日毎日朝早くから夜遅くまで、竹刀を握り、振り回していたことを忘れたか!?(剣道部) グランドの土に光る汗と同じ量の涙が落ちていったことを忘れたか!?(野球、サッカーetc.) ゴールネットがやけに高く見え、突き指とマメで節くれ立った手で涙を拭いたことを忘れたか!?(バスケット) あの頃、僕は朝起きてから夜眠りに就くまで、剣道に思いを馳せていました。どうやったらあの先輩に1本打ち込めるのか、警察機動隊の猛者たちにいかにしたら勝てるのか、1年365日そればかり考えていました。それでも打てない、どうしても勝てない自分がそこにありました…(思い出しウルウル)(;_;)。それなのに、それなのにたった二日ぐらい泥縄式に練習したぐらいで満足できるスコアも結果も出る訳ねぇだろう。
 精一杯やった者だけにしか分からないあの快感(結果はどうであれ)を忘れてしまった自分がそこにありました。
<日々小さな積み重ね>
 100叩いたからといって腐ることなかれ、たかがゴルフではないか、菊池よ? もし仕事でこんな泥縄的だったら一巻の終りです。でもあの青年期、朝から晩まで打ち込んだ部活動のように、仕事に対しても(内容も質も違うけれど)のめり込んでいるのだろうか? 仕事は和紙を一枚一枚積み重ねていくが如くと言います。大切な大切な、そして大好きな自分で選んだ仕事です。自分のゴルフのように泥縄的では、いつまでも中小零細企業です。まさに経営者としては百叩きの刑です(自戒を込めて)。
 きっちりした目標と大きくて楽しい夢を持ちながら、仕事もゴルフも日々楽しみ、頑張りましょう。菊池が書くのもナンですが…。
<私の小さな21の森>
 創立5周年時に、我らくまもと21の会は高らかに「みどりの森宣言」を公にしました。会員一致して決議し、21の森づくりを目指して準備をスタートしたはずだったのですが、はたして今それはどこに行ったのでしょうか? ただ単に心に描いただけの絵空事だったのでしょうか? やりましょう! やりましょう! 21の森づくりに賛同してくれる会員と身内だけでも良いから小さくスタートしようではありませんか。
 まず、資金づくりからです(なんと言っても資金は大切です)。私の提案なのですが、「1本苗木運動」ということで一人毎月1000円記名して徴収し蓄えを始めます。自分の手で1本ずつ苗木を植える、そんな小さな21の森づくりをスタートしませんか?
<小さな21の森づくりと同時に…>
 くまもと21の会でプロジェクトチームを発足させ、5年間の21の森づくりのスキル製作を始めます。ただ専門的な知識が必要となりますので、賛同してくれる少人数の方々をチームに入っていただき、土地探し、資金づくり、スポンサー集め、川上から川下のこと、また影響を受ける海のことなどを、くまもと21の会の組織の中で、事業としてやっていきます。
 ただ一番大切なのは、21の森づくりが楽しく夢があるものではないといけませんので、自分たちの手で少しずつ進めることが大切ではないでしょうか? 次世代の子供たち、そして22世紀に21の森で遊んでいる子供たちの姿を思いめぐらしながら…。
「みどりの森宣言」の内容は設立趣旨のページにあります。
2001年04月22日掲出
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最近読んだ書物、情報誌より
そして今思うこと???
くまもと21の会 副会長
松原達也
キングラン九州株式会社 代表取締役
 昨今は、IT、ITと情報が渦巻き何が正しいのやら、時が経つと新しい情報が正しいような形で我々にインプットされます。
 ある雑誌に『正しいことは、いいことだ。しかし、何が正しいことなのかは、時代により、社会により、人によって違う。アフガニスタンを支配するイスラム原理主義者による世界最大の石仏像の破壊を言っている。彼らにとっては<正しいこと>かも知れないが、その世界の外から見ると、正しいことではない。愚かな文化破壊である。
 正義に目がくらむと、こういった愚考が行われる。日本でも仏さんの破壊が行われた。明治新政府が行った<廃仏き釈>である。神道国教化政策のもとで寺院、仏像、仏具が破壊された。明治新政府の政治家たちにとって、神道に反する仏教を破壊する事は<正しいこと>だったが、現在<正しいこと>と思う人はいないだろう』と書いてありました。
 私たちは、各エリア、ジャンルにおいて、一端<いっぱし>のトップを担ってる輩ばかりの集まりです。日ごと決断の連続である。そこには、これが一番<正しい>んだ、ベストだと、思って前を向いて歩むしかないのが実情か? もっともっと私たちは、学びそして経験を重ねなければ…。
 ジャーナリスト・嶌信彦さんが言うには、日本人は知人はいるが、友人がいない。
 知人というのは何か、損得、ビジネス、担保、お金、技術、これで付き合ってる関係が知人の関係です。つまり、会社や業界の関係というのは、損得、ビジネス、担保、お金、技術だけで付き合っている訳です。だから、そういう知人の関係は、会社を辞めると2年か3年で大体途切れてしまう。
 そうすると、男の人は行くところがなくなってしまうから家の中に閉じこもってしまう。家の中に朝から閉じこもって嫌だなあと思うと、「じゃ、病院でもいってくるか」と病院へ行く。だから、老人医療費がかさんでしまう。午前中、病院に行って御覧なさい。男の老人がいっぱいです。ほとんど男の老人です。終わっても帰らない。帰っても奥さんはいないのです。月曜から金曜までスケジュールがあるから。
 そうすると、ソファか何かで「同病相哀れむ」でお互いの病気自慢をしている。
「今日は Aさん、来てないな。もしかすると病気じゃないか」と心配している。これじゃやっぱり人生面白くない。だから、友人を持つことが大事だ。
「知人」だけでなく「友人」をつくれ
 友人というのは、損得、ビジネス、担保、お金、技術だけではできない。友人を持つには、コミュニテイー・地域の助け合いの精神、奉仕・ボランテイアの精神、それから人間の品性、この三つがないと友人はできません。よく言うのに「あいつは品性が下劣で本当は付き合いたくないんだが、商売があるからしょうがないから付き合っている」…と。
 親友と言うのは、信頼できて、真の友達で、心から深く付き合える友人。
「親友」・・・・信友、真友、心友、深友だ。
 私たち21の会は、既存の他の会とは違う、いや違えよう…と創立時にはみんなの心の中にあった、今でもほとんどの会員がそうだ…と。だからこんな厳しい時代にかかわらず貴重なお金と時間を割いて会の活動を活発化しよう、行動しようと常に模索している。そして今も会員が増え続けている。
 ある本に、歴史と古典の教養がなく、自分の身のまわりの貧弱な経験しか知らない人は、大きな変動に際してどうしてよいのかわからなくなってしまう。歴史と古典を知っている人にとっては、大きな変動もデジャ・ビウ<かつて見たことがあること>である。そいう変動期こそ、教養人の洞察力が活きてくるのである。
 もう敗戦後半世紀以上経つ。これから日本はどうすればよいのであろうか。変革は何時かは来る。その変革に今から備えておいて、明治維新のように新しい日本を創造するチャンスを私たちは逃してはならない…と。
終わりに、
 大変たいそうなことを、引用し、また書いてしまったような気がしますが、私たち21の会は、熊本が、日本が、そして、人が大好き人間の集まり<森・杜・盛・守・銛・もり>です。一人でも多くの方の有志のご加入と、多くの方のご意見を期待いたします。合掌
2001年04月01日掲出
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無題
くまもと21の会 副会長
森本茂樹
株式会社日本ビル管理 代表取締役
1・足について

いつのまにか日足が長くなりましたね。
雨足が強い中、足を伸ばして石川県山の中に
行ってきました。
このごろ足が地に付いていない自分にきずき
年も50になり、いつのまにか足腰が弱って
鍛えなおさねば、と思いつつも…
おれの座標の位置は?
ベクトルは?
エンタルピーは?
2・間合いについて

間合いって言うのは日本独特の文化だよね。
無の空間から生まれるエネルギーを間合い
と言うんでしょうか。
宇宙は無の揺らぎの空間から誕生した
と言われていますよね、
人間は勿論大宇宙の創作物ですよね。
だから人は揺らぐんだ、
揺らげば無限のエネルギーが生まれるんだ、
だから間合いっちゆうのは大事なんだな、
日本文化っていうのは素晴らしいね。
2001年03月15日掲出
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海っこ・山っこ
くまもと21の会 副会長
山村唯夫
山村酒造合名会社 専務取締役
今 豊饒の海「有明海」が 大変である…、否、もう 限界だそうである。
あれぇ、このセリフ どこかの山でも 聞いたぞ?
厳しい阿蘇の冬も 峠を越え、春の足音が 確実に近づいてきている…、阿蘇春と言えば…、
そう、「野焼き」である。
しかし、街の論理そのままに、山にも適用しようとしている「ダイオキシン問題」が野焼き論争には 出てこないようである…。
2001年、4月のJA阿蘇の大合併に引き続き、6月には 森林組合の大合併までもが…。
(11町村7組合で「噂の小国町森林組合」を除く)
この合併では 債券事前処理や財産引継等 経理面や役員定数等が 当然 最優先されています…。
さて、立木を間伐なり伐採なりした後、現場では、ある一定の長さに 仮材木化します。
この行為を 「たま切り」と言います(痛そうな 表現っすねぇ…)。
その残りは 「タキモン」として持ち帰る以外は放置されたりもしますが、跡地に再度植林する為に
(「植え付け」直前までに)整地消毒・防虫駆除を行います…、危ない肥料を使わないで…(日わば、安全な無農薬栽培でしょうか)、「火」を入れます、焼くのです。
代々 山村家の「山」を育成管理協力してきた方々はそれを「安全第一」と認識し 繰り返してきました。
しかし、数年前より、原野火災に凝り、事業所ボヤの反省もあり、「高森町森林組合」では禁止作業にしてしまいました…。
そこで、知恵者は 現場が高森町であるにも拘わらずお隣の「蘇陽町森林組合(ここでも組合員っす)」に委託してまでも、継続してきたのでした。
しかし、2001年4月からは それも禁止…。
「ちょーっと、待ったぁー!」
山で 問題の「ビニール袋(コワーイ農薬入り)」も焼いたらイカンとなら、「野焼き」は どうなる?
牛か蝶か?
肉か野草か?
人か自然か?
の大論争の次には
山でも 極端択一の 「ダイオキシン問題」っす。
海では水銀…、環境ホルモン…かな?
さてさて、夏はそれ程でもないのに、冬になると 恋しくなるものなぁーんだ?
答え、そら「火」たい!
「火の国」だけに、「火」には 大変お世話になっています…、阿蘇では「火まつり」までも…。
「焼酎」が蒸留酒であることから「火の酒」と呼ばれることに対して、
「清酒」を醸造酒であることから「水の酒」と呼ばれていますが…、
どっこい、1800年代半ばに世界に発表された、パスツール博士の「63度」殺菌法・パスツリゼーション・Pasteurizationは 
日本では 1400年代・室町時代より伝わってきた加熱・殺菌し、酵素の働きを止める「火入れ」という「ニッポンの常識」っす!
また、殺菌のみならず、鍋・おでんには やっぱり熱燗っすよねぇ…。
殺菌には「火」が一番である事…、
そして、イヤナ事は「水」に流す…。
この2つの「ニッポンの常識」が 今 危ない!
いいよなぁ、海っこは…、海じゃ 「火」の用心 めったにないもんなぁ。
  山っこも つらいよ!  阿蘇も大変!
2001年02月12日掲出
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